2016年御翼5月号その3

天皇とキリスト教

   

 1549年、来日した宣教師フランシスコ・ザビエルが何よりも渇望していたのは、「天皇」に謁見して日本での布教の許可を得ることだった。ザビエルは「天皇」を政治の権力者ではなく、宗教的な権威をもっているローマ教皇のような存在として捉えていたのだ。しかし、天皇は戦乱で荒れ果てた京都を離れており、謁見(えっけん)はかなわなかった。しかも、実際には、宗教に関する許可は、比叡山と接触する必要があることが後に分かり、それを実行に移したのは、ザビエルの後継者であるイエズス会の宣教師たちだった。ただし、この時は、比叡山からは布教許可は得られていない。
 しかし、約400年後、皇室はキリスト教と急接近することとなる。太平洋戦争直後、日本を占領していたアメリカのGHQ(連合国最高司令官総司令部)は、天皇を現人神(あらひとがみ)とする日本の精神的支柱に代えて、キリスト教を日本人の生き方の模範にするという政策を打ち出そうとしていた。そのため、終戦の翌年には、賀川豊彦牧師が宮中に参内(さんたい)し、昭和天皇にキリスト教の講義をしている。やがて、皇居内では、皇族を対象とした聖書研究会が開かれ、時の皇后陛下や、昭和天皇の子女たちも毎週のように聖書を学び、賛美歌を歌っていたという。
 「私はずっと、クリスチャンは誠実な人柄のもち主であると考えております。道徳、人格が退廃に向かう悲しい傾向に直面する時、クリスチャンがわが国の光となることを切に願うものであります」。これはICU創立総会の折、名誉総裁の高松宮殿下があいさつで述べた言葉である。ここに、皇室がキリスト教に対し、当時、どのようなイメージをもっていたかが如実に表れている。
 但し、敗戦直後、昭和天皇はマッカーサーに、「戦犯はわたし一人だ。わたしを死刑にして、国民は全員赦してほしい」と言い、それを聞いてマッカーサーは震え上がったという。これは、キリストに倣った昭和天皇のお姿である。皇室には、古代からキリストの精神が伝わっているのだ。美智子妃殿下が、カトリックの聖心女子大学を卒業、家庭がクリスチャンホームであったこと(受洗はしていない)、秋篠宮家(あきしののみや)の佳子(かこ)さまが、学習院大学を中退し、国際基督教大学に編入されたことなども、その背景に皇室とキリスト教との浅からざる関係が見え隠れする。しかし、美智子妃殿下は皇室に入ってから、持参した聖書をはく奪されるなど様々な障害が待っていたとも事実である。それは光と闇との闘いである。天皇と神道が強く結びついたのは明治以降で、幕末以前は、むしろ仏教に近かったと言われている。表向きは何の宗教であろうと、東日本大震災の被災地を訪れ犠牲者のために祈りを捧げる今上(きんじょう)天皇と美智子妃殿下には、真の神の前における、謙遜な人間の本来あるべき姿がある。                  守部善雅『ザビエルと天皇』(フォレストブックス)より

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